桜も散り、初夏を迎えようとする5月も下旬、教育者として高名なある私立学園長のA先生は、フィリップ島のペンギンパレードを楽しみにして元気に成田空港からオーストラリアに向かった。
  翌日は気温15度快晴、過ごしやすい一日で、シドニーのサーキュラー・キー6番乗り場から出発してクルーズを楽しんだ。世界三大美港の一つといわれるだけあり、海上から見るシドニーの景観は圧巻であった。A先生は満足しつつも、心はペンギンパレードを想い、その後の展開など、予想だにしなかった。

当日、A先生は奥様とメルボルンのホテル、ソフィテルメルボルンを午後2時に出発し、120キロメートル離れたフィリップ島に向かったが、曇天で気温も低めであった。午後5時頃現地に到着、雨が降り始めたがパレード見学は可能との連絡が入った。雨の中を20分ほど歩き、ようやく見学場所についた。A先生は何となく胸苦しさを覚えた。ちょうどお茶も飲まずに焼き芋を飲み込んだような感じである。気温が低く寒くもあり、次第に楽しみにしていたパレードより早く帰りたいと思うのであった。
ようやく見学が終わり、帰りの徒歩行程中に雨はますます強くなり一行は濡れながらバスに戻った。座席に着くや否やA先生は呼吸困難に陥り、意識不明のまま救急車で病院へ搬送された。ビクトリア州では、アンビューランス・サービス・ビクトリアの救急車が地域の公立の救急病院に運んでくれる。後日到着した救急搬送の請求書では、基本料金260豪ドル、10キロごとに6ドル追加され、合計は約400ドル程であった。緊急入院したが病名は『急性心筋梗塞』で重篤であった。高齢であったが、閉塞した冠状動脈を拡大して保存するバルーン手術を行い、ステントと呼ばれる網のパイプを留置してようやく症状が安定した。

病名が病名だけに、同行していた夫人だけの付き添いでは夫人自身が心もとなく、二人の息子さんとA先生の弟さんを呼び、3人はメルボルンまで救援に駆け付けた。
  しばらくして、救急期を脱したA先生は通常入院の私立病院に移された。オーストラリアでは、救急病院で救急処置が終了するとすぐに一般の病院に移され、次の患者のために救急病棟をあけることを求められる。

治療費は、海外旅行保険から支払われたのはもちろんであったが、A先生が通訳を通じての治療より日本に帰って治療を続けたいとのため、医師付き添いでカンタス航空の座席を6席使用して4日目に帰国入院した。保険会社の手配で一行は同じ便で帰国が可能となった。保険会社の対応は以外に役に立つと感じ、再評価をした一行であった。当初、気弱になったA先生は「どうせ死ぬなら畳の上で…。」と言っていたが、手術後はメキメキ良くなり入院前以上に元気になった。帰国後は都内の病院に2日間入院したがすぐに退院が許可され、日常の生活に戻った。日本の春から、急に秋の寒い季節のメルボルンに行ったため発症したのではないかと思うが、その後は症状が嘘のように、消えてしまった程である。
 

後日立て替えた家族の救援渡航費用と入院のための身の回り品の購入費等を請求すると、
他に立て替えた費用はないかと聞かれ、手元にあったすべての領収書を出した。すると親族が救援のために使った通訳料まで支払ってくれたのである。現地で見舞いのためのタクシー代から、国際電話料やファックス代も対象になった。

いざという場合に、読者諸氏も領収書はできるだけ取っておいて保険会社の担当に率直に相談されることをお勧めする。意外と対応してもらえる。

以上
  

2009/11/25

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