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海外旅行・海外留学危機管理コラム新・とらべるDEとらぶる

第6回 アンデスの高山病

 K大学の米国留学生5名は、休暇を利用してペルーツアーをしようと計画し、7月7日ロサンゼルスからリマに向かった。5人は米国でそれぞれの目的の大学に留学していたため、久しぶりの再会であり楽しく盛り上がった。Aさん、B君、Cさんの3人はロサンゼルス、Dさん、E君はサンフランシスコから参加した。
  ペルーの市内観光をしながら、スペイン統治時代のカテドラルをはじめとした建築物や遺跡、そしてインカの遺跡等を楽しんだ。その後一行は7月13日金曜日に、治安上も比較的安定した南部ペルーを周遊しチチカカ湖で有名なプーノの町に到着した。まさにペルーのイメージをそのまま風景にした街である。街の市場を除くと、さすがにジャガイモのルーツの国である。100種類以上あるというが、様々なジャガイモが並んでいる。宿の料理も意外にうまい。しかし、標高は3,850mで富士山頂より高いのである。やはり空気が薄いのか、息が切れる。街を歩いていて、振り返るとCさんが遅れがちになっている。「大丈夫かい。」と声をかけると、Cさんは小走りに追いつこうとしたが、その時高山病特有の症状が出た。血中酸素濃度が下がっていたため、運動したら酸素不足が一層ひどくなって足の筋肉も脳も正常でいられなくなったのである。
  Cさんが倒れたため、皆が慌てて介抱し声をかけた。「大丈夫かい。」するとCさんはか細い声で「雲にのったみたい。足が、腰から下が何も感じない・・・。」といったまま気を失った。慌てた4人はCさんの名前を呼びながら介抱したが意識は戻らない。困惑していると現地の人が集まってきて何か大声でお互いに言っている。これは車を手配してくれていたのであった。彼らはトラックで現地の病院に搬送してくれた。しかし、依然として意識不明である。ERに運ばれ医師の診察が始まった。担当医は、酸素吸入と点滴を行った。薬剤は解熱と頭蓋内圧を下げるものだという。付き添った4人は、この段階で大学に助けを求めることを思いついた。現地時刻で午前11時にAさんは自身の携帯電話で日本の大学に報告の電話をかけた。丁度国際交流課の課長が残業を終え、帰り支度をしようとした時であった。課長は状況を聞き、事の重大さに驚いた。すぐに弊社に報告があり、対応の支援が始まった。大学は弊社の支援で緊急対策本部を開設し、対策を次々と行った。保険会社に報告すると共に保護者に第一報を行い、救援派遣の職員の選定と保護者支援の準備を進めた。情報収集の過程で、現地の主治医は意識不明であるも心配はいらないと述べていたが、弊社のリスクマネージャーのこれまでの経験から意識不明を長時間続けると大変な事態を招きかねないため、速やかに患者の高度を下げることを保険会社の担当者と打ち合わせし、合意を得た。しかし米国から手配する医療チャーター機の到着まで22時間かかり、また、空港は照明機能がないため午後4時半以降は離発着できない。このため、搬送は15日の午前となった。この間、日本の対策本部では保護者の救援渡航の手配と準備、大学職員の同行救援の手配等々と目まぐるしく動いていた。
  リマの病院はいくつか候補があったが最終的に最も設備の充実したある病院となった。病院まではAさんとB君が大学国際交流課長の要請で付き添ってくれた。その後も主治医に高山病による脳浮腫と診断されて、意識は戻らない状態が続いた。17日午後に救援の両親と職員が到着予定であった。DさんとE君はチャーター機に乗れないためバスでリマに向かった。
この病院ではMRIの検査を行い、正確な診断から処置が行われ、血中酸素濃度も正常に戻ったが依然として意識は戻らなかった。日本大使館職員も病院を訪問してくれた。この状態が長いため、後遺障害の発生や万一のことも懸念された。しかし17日の昼前にCさんの意識は戻った。奇跡が起きたのである。
  そこへ、両親が大学職員と到着した。両親は、ダメかもしれないと内心覚悟を決めていたため、驚くと共に大変喜んだ。大学の緊急対策本部では徹夜が続き皆、疲労困憊の中であったがその報に歓喜の声が上がった。後日、両親は娘を日本に連れて帰ろうとしたが、Cさんは周りの心配まったく意に介さず、留学を継続すると頑として聞き入れない。本人はちょっと具合が悪かった程度に思っていたらしく、大学が緊急対策本部まで開設していたことに驚いた様子であった。
結局、Cさんは留学を継続し、両親と職員は日本へ帰国し、他の学生も留学先に戻った。
これほどのことが起きたにもかかわらず珍しく、終わりが良かったケースであった。

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