世の中に保険嫌いという人が時々見られる。各々の人にはそれなりの理由なり、感覚的な理由なりがあるものであるが、その一人であるA氏の理由は「万一のことを考えることは、縁起が悪い」というものであった。この考え方は、予想以上に多くの人の共感を得るようである。発想の起源は神道にあるという。

シャーマニズム的神道の旧来の形態では、言霊(ことだま)とか心霊とかいったものを重視し、悪いことはなるべく考えまい、言うまい、としていた。その影響が考えられるというが、好むと好まざるとに関わらず常に危険は存在する。

 熟年ツアーの説明会では頑として海外旅行保険に入らなかったA氏であったが、帰途に心配性の夫人が「もう縁起の悪いことを考えてしまったのですから保険に入ったらどうですか…。」と言ったため思い直してT旅行会社に戻り 夫婦で加入した。

出発当日成田空港に集合した面々は皆元気そうで、13日間の『スイスアルプスとロマンチック街道の旅』に出発して行った。しかし、フランクフルトから始まり、ローテンブルグ、ホーエンシュバンガウ、インターラーケンまでの9日間を過ぎたあたりから皆疲れてきた見え、次第に口数が少なくなってきた。

次の目的地、マッターホルンの麓町ツエルマットへ向かう鉄道とそれに続く登山鉄道の中で、A氏は背中から冷や汗が出て、両上肢に震えるような脱力感を覚えた。ホテルに到着しチェックイン後部屋に入ったときには胸部中央部の鈍痛が始まった。丁度石焼芋を噛まずに飲んだような胸苦しさであったという。
 

A夫人は急遽、添乗員のH嬢を通じてホテルドクターを呼んだ。この段階に至ってA氏は「もしやこれが命の終わりでは…。」との不安が頭をよぎり、夫人に感謝の言葉を伝えたという。到着した医師は、心筋梗塞でアダム・ストークス症候群が発生していると説明、救急車が呼ばれた。応急処置を続けるドクターであるが、全身けいれんと意識喪失があり、脈がとれない状態であったという。
 

A氏は救急病院に運ばれ、CCUで治療を続けられた。本人は、A夫人の呼ぶ声は聞こえていたかもしれないが話は全く出来なかった。きっと家族のこと、仕事のこと、等を考えながらまだ死ぬわけにはいかないという思いが頭をよぎっていたのではなかろうか。 救命処置と対応にも関わらずおよそ2時間後、A氏は亡くなられた。
 

慌てたのは添乗員のH嬢である。ツアーの途中であり、次のパリ行きは皆が最も楽しみにしているポイントである。予定を変更してA氏に付き添うわけには行かない。本社に電話して、協力関係にあるM社のヘルプを求めようか、等々思案しつつ泣き崩れる夫人に代わってA氏のパスポート等の整理を始めた。そのときポロッと海外旅行保険契約証が出てきた。「天の助けとはこのことだ!後は保険会社がやってくれる。」と保険会社に事故報告を行い、後の対応を全て託した。

H嬢は、他のお客様の楽しい気分を守らなければならない。列車の出発前に「A様ご夫妻は
ご主人様のご気分がすぐれず病院でご静養中ですので、団を離れますが皆様にはよろしくとのことでございます。」と伝え、その後のツアーを完了させた。(本当のことを言ったら他の参加者の思い出が暗くなってしまうからとのこと。)

A氏と夫人は保険会社の手配で家族の救援渡航を受け、すべての手続き手配と対応は保険会社が行って、4日後全員で帰国し寝台車でご自宅に帰った。
H嬢は、保険が無かったらツアーも壊れる、A氏ご夫妻もどうなったか分からない、大変なことになるところであったと述懐している。

以上


  

2010/2/25

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